京都: 清涼寺(嵯峨釈迦堂)

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16日月曜日、大文字焼き当日。
何しろ夜まで時間はたっぷりあります。

暑いしねえ~、どうしようかな?って思いながら嵯峨野まで足を伸ばしてみることにしました。
本当は紅葉の季節の方が良いのかな…とも思いつつ…。
暑い最中に嵯峨野を歩くことに。

まず行ったのは清涼寺(嵯峨釈迦堂)です。

棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(ちょうねん、938-1016)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、実は模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれている。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとした。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、奝然は没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。
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それだけじゃないんですねえ。ここって…。
清涼寺の前身は、光源氏のモデルとされる嵯峨天皇・皇子の源融(みなもととおる)の山荘「棲霞観」(せいかかん)で、融が亡くなって棲霞寺と改めらたが、天慶8年(945)醍醐天皇・皇子の重明(しげあきら)親王が亡き妃のために新堂を建て釈迦如来を安置した。これが釈迦堂の名前の由来とせれ、京都十三仏霊場第二番礼所である。
なんだって…。
実際には光源氏のモデルは何人かいたらしくて、そのひとりってことらしいんですが…。
なんでこんなことを書くかって言うと、どび~は光源氏のモデルがいたってことに驚いているのです。
ま、そう言われればそうなんだけど、あくまでもフィクションだと思ちゃってたんですねえ~。
そう思うと、紫式部はどういう思いでこの皇子を見ていたのでしょうか?
と言っても、この源融と紫式部は同時代には生きていたわけじゃないらしいけどね…。
100年ぐらいの差がありそうだし…。
当時の文献が紫式部の頃に残ってたとも思えないし…。
なかなかのふしぎ発見です。
モデルかあ…。
本当なのかなあ…。

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一切経蔵:徳川中期の建築で、中には一切経をおさめた輪蔵があり、回すことで一切経を読んだことになる
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何となくネパールっぽいですね。
もちろんどび~も回してみました。
当然でしょ!

by dobbymylove | 2010-08-17 21:37 | 京都